ハサドの錯乱状態はやや収まったようだ。呼吸を整えながら、ぼそりと言った。

「無事にここを出ることだ」

「それは無理だ」

「レイザー!」

ダイアナがまた叫んだ。

「蛇神に誓って言うわ。もし私の身に何かあったら、あなたは――」

「黙れ!」

ハサドの怒声がダイアナを遮った。刃先はさらに強く押しあてられ、今にも血が滲み出しそうだ。

「いいか人間、俺を逃すんだ。さもなくば、こいつの命はない――」

「今彼女を殺せば、生きて帰ることはできないぞ。暗殺が目的ではないのだろう。お前は市場で情報を売りたいだけだ。違うか?ならば生きて帰ってこそ意味がある。お前がここで殺されたところで、気にする者などいないのだ」

ハサドはスースーと息をしながら、徐々に落ち着きを取り戻した。

「いい稼ぎになるんだ……どの家の情報でも同じだ……」

「そうだろうな。だが俺が知りたいのは、お前がなぜここまで入り込めたのかだ」

レイザーは手を揺らしながら、ハサドのほうへまた一歩近づいた。

「道案内をした者がいるのだろう?さもなくば、これほど短時間で寝室までたどり着くのは不可能だ」

 「そ、それは……たまたまだ⋯⋯」

 ハサドは目を細めた。迷いから刀を持つ手がゆるみ始める。

 「本当に偶然か?ハサド、本当のことを言えば命だけは助けてやろう」

 ハサドの瞳に浮かぶ疑いの色が濃くなっていく。レイザーの言葉も腕の中にいる人質の価値すらも怪しい。もし人質が本物のダイアナであれば、レイザーはより焦りながら人質の解放を要求してくるはずだ。

 このダイアナは本物なのか⋯⋯それとも偽物なのか⋯⋯

 ハサドの迷いはレイザーにはお見通しだった。その焦りに満ちた顔を見る限り、本当に偶然迷い込み、ダイアナを人質にとるしかなかったのだろう。

 ならばできるかぎり時間稼ぎをして、応援が来るのを待つのみだ——

 「私はただの身代わりよ!蛇神に誓うわ!」

 ダイアナはレイザーの意図を理解しておらず、自らを開放してもらおうと身をよじって叫び声をあげた。

 ハサドの目つきが徐々に理性を失い、狂気に変わっていく。そしてまるで役に立たないカードを見るような目でダイアナを見た――レイザーはこれ以上の時間稼ぎは不可能であると判断し、背中から素早く武器を取り出してハサドに向かって投げつけた。

だがトカゲ人間にとって、この程度の攻撃をかわすことなど容易である——予想通り、ハサドは頭を動かして攻撃をよけ、刀を握る手に力を込めた。自暴自棄がもたらす残酷な力が、ダイアナの喉を切り裂いた。

レイザーはその瞬間、隠し武器を連投して逃げ道を封じると同時に、腰の長刀を抜いてハサドに飛びかかった。銀色の光がダイアナの耳元をかすめ、ハサドの顔に深く切り込む。ダイアナはトカゲ人間の血を浴び、そのまま地面に倒れた。

レイザーはもう倒れたトカゲ人間のほうは見向きもせず、ダイアナを受け止めると、懐に抱き入れて首の傷口を押さえた。ダイアナは弱々しく息をしながら、責めるようにレイザーを睨みつけている。

「お嬢様、恐ろしい思いをさせて申し訳ありません」

「よくも……私に傷を負わせたわね……!」

「申し訳ありません。ですがあの男が愚かで助かりました。あいつが刀の持ち方を変えなければ、あなたの動脈は切り裂かれていたのです。私が教えたのは、人間を殺す方法。トカゲ人間の血管は人類よりも深いところにありますから、あなた方にとっては……」

「黙りなさい!」

ダイアナは泣きながら叫んだ。

「はい」

レイザーは振り返り、そこにいる侍女を見た。

「来い。お嬢様を支えるんだ」

侍女は何も疑うことなく近づいてきた。するとレイザーは素早くナイフを取り出し、くるりと回して侍女を突き刺した。侍女はうっと微かなうめき声を上げ、そのまま床に倒れた。

レイザーは驚きで声を失ったダイアナを抱きかかえ寝室に入った。レイザーの暗号を聞いて飛んできた三号も、血だらけの二人を見て驚き、その場に無言で固まった。

「今すぐお嬢様の姿をして主人のところへ行け。ハサドは始末したと伝えるんだ。それから、あの治療のできる侍女長を呼んで来い」

三号は、ハッとして聞いた。

「でも『お嬢様』がケガをしていないのに、どうやって侍女長に来てもらえばいいでしょうか?」

「――部屋の外で倒れている侍女の傷を見てほしいと言うんだ」

レイザーはあらかじめ答えを用意していたように言った。