「じゃあ、レイザーは――ジュアン家から追い出されるのですか?」
少女は恐る恐る尋ねた。
「……なぜそう思うの?あの太陽王国のスパイは死んだのでしょう?」
ダイアナがうんざりしたように聞いた。
「はい……」
「だったら問題ないわ。レイザーは面倒ごとを片付けて、あなたは生き延びた。それに私は――」
レイザーが突然扉を開けて入ってきて隠し扉のそばに立つと、ダイアナが得意げな顔で振り向いた。
「また弱みを一つ握ることができたわ。これでしばらくは新しい護衛を探す必要もないわね。すべてが万々歳、そうでしょう」
レイザーはダイアナと無言で視線を交わした後、疲れたような口調で言った。
「お嬢様、あまり長く不在にされては、侍女たちが不審がります」
「すぐに戻るわ」
ダイアナは髪をかき上げ、去り際にレイザーをチラリと見た。
「彼女を守っているだけじゃだめよ。この子はまだ一人前の影武者とは言えないんだから、しっかり訓練してちょうだい」
「仰せのままに」
ダイアナはスカートの裾を翻して扉をバタンと閉め、寝室へスタスタと戻って行った。レイザーが少女のほうを振り向くと、少女は困った顔をしている。
「お嬢様に、何を伝えたんですか?」
「全部だよ」
レイザーはあえて平静を装って言った。
「そうでもしなければ、俺の言葉など信じてはくれないからな」
――でも、全部っていったいどこまで?太陽王国のことだけじゃなく、先生の過去のことも?それとも、もっと多くのこと?少女は聞きたくてたまらなかったが、今は聞くべきではないような気もした。
レイザーは少女の心配に気付いたかのように話題を変えた。
「細かいことは気にするな。とにかく、お嬢様はお前を心配していたんだ」
「平手打ちされたのに?」
少女は驚いて顔を上げた。
「彼女なりの、ひねくれた思いやりだと思えばいい」
男は両手を胸に当てて、当然だというように肩をひそめた。そして、もう一言付け加えた。
「こう言えばわかるか。最終的にすべてが丸く収まったからほっとしたんだろう」
「よく分かりません。お嬢様を怒らせたとしか思えないけど、怒っていないようにも思えるし。お嬢様のお気持ちがますます分からなくなりました……」
少女は困ったように頬を触りながらため息をついた。
「当然だな。お前には一つ重要なものが欠けているからだよ」
「えっ、それは何ですか?」
少女は驚いて耳をピンと立てた。
「知的エリートの傲慢というやつだ」
レイザーは唇をゆがめて言った。彼なりのささやかな仕返しだった。
「……先生」
「俺はもう行く。ちゃんと午後の授業に来るんだぞ」
男は手を振って出て行き、少女は一人部屋に残された。ドアを隔てて、ダイアナがレイザーに文句を言っている声や、侍女たちに命令している声が聞こえた。空っぽの部屋に二人が残した息づかいを感じ、ふと、この部屋だってそれほどさみしくはないと思えた。
もしジュアン家を離れることを選んでいたら、レイザーは二度と自分の前に姿を現さなかっただろう。レイザーは安心してここを去り、少女の人生から黙って消えて、二人の人生は二度と交わらない。
だから、ここに残ると決めたのには少女の私心も含まれていたのだ。
「レイザー……」
少女は奇形の手を見つめた。幼いころに押しつぶされ、縮んでしまった小指。
言葉にできない感情がこみ上げる。彼女はそっと眼を閉じ、男の名前を小さくつぶやいた。胸に湧き起こった感情が、全身に広がっていく。これは誰も知ることのない、少女だけの秘密だった。愛という言葉ではとても表現できない。レイザーとダイアナ、そしてこの国の未来を決める戦いに対して少女が抱いている気持ちは愛よりももっと大きな、信仰にも近いものだった。